原付2種で行く 中国、九州、四国ツーリング A

2006年5月5日

5時起床。どんなに疲れていても、ツーリング中は早起きが苦痛ではありませ
ん。
産業遺跡として有名な軍艦島を写真に撮る。
軍艦島は、長崎県の端島の通称で、三菱高島炭鉱に関わる施設や住居が林
立し、遠目に見ると軍艦に見えることから、軍艦島と呼ばれています。
港から漁船をチャーターして見学出来るそうですが、とても貧乏ツーリング中の
私には負担出来ません。今に大金持ちになって、自前のクルーザーに美女を
はべらせ乗り付けてやります。 爆!




遠目ながら、大きなマンションが見えます。
私の家の近所には、雇用能力開発機構が就職にあたって転居を必要とする人
のために建てた団地があり、九州の炭鉱から転職のために大阪に来られた人
が沢山住んでいました。
我々大阪のモヤシっ子と違い、運動神経抜群のヤンチャな子供が多く、一目置
かれていました。

軍艦島
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載

軍艦島は以下の島の通称、俗称。

長崎県長崎市に所属する島。正式島名端島。
石川県珠洲市に所属する島。正式島名見付島。
佐賀県唐津市に所属する島。正式島名神集島。

軍艦島(ぐんかんじま)とは、長崎県長崎市(旧高島町)にある島、端島(はしま)の通称である。

正式な島名は「端島」であるが、通称である「軍艦島」のほうが知名度が高い。

地理
長崎市中心部から南西約19km、旧高島町の中心である高島から南南西約4.5kmの海上に位置する。開発のため島
の周囲の埋め立てが繰り返し実施されており、海岸線は直線に近い形状をしている。面積約6.3ha、海岸線全長約1,
200m、東西の長さ約160m、南北の長さ約480m。

歴史
19世紀に石炭の存在が発見される。明治時代初期には鍋島氏が経営。1890年から三菱財閥の所有となる。石炭
採掘のため周囲を埋め立て、また鉄筋コンクリート造の集合住宅群を建設した。海上から見たそのシルエットが、日
本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから、軍艦島と呼ばれてきた。戦時中に米軍潜水艦が本物の軍艦と勘違いし
て魚雷を撃ち込んだというエピソードは有名だが、実際は停泊していた石炭運搬船を狙ったものだった。良質な強粘
炭が取れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎
えた1941年には約41万tを出炭。人口が最盛期を迎えた1960年には5,267人の人口がおり、人口密度は東京特別
区部の9倍以上に達した。炭鉱施設のほか、住宅・学校・店舗・病院・寺院・映画館・理髪店などもあり、島内におい
て完結した都市機能を有していた。

1960年以降は主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。1965年に新坑が開発され
一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年1月15日に閉山した。閉山時に約
2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、無人島となった。この時期は、日本の高度経済成長
の終焉と重なる。

行政区域の変遷
1889年4月1日の町村制度発足により西彼杵郡高浜村大字端島となった。1955年4月1日に高浜村が野母村・脇岬
村・樺島村と合併して野母崎町(現・長崎市)となった際、端島は高浜村から分離し、高島町に編入された。2005年1
月4日に高島町が長崎市に編入され、現在は長崎市高島町端島となっている。

島内の集合住宅
集合住宅としての軍艦島は、保存運動で話題になった同潤会アパート以上の長い歴史を持っている。

1916年(大正5年)に建設された日本最初期の鉄筋コンクリート造の高層アパート(30号棟、地上7階建)を皮切り
に、高層アパート群が建設され、大正期の日給社宅と呼ばれる炭鉱住宅は、長屋を高層化したような建物であった。
高層アパートは第二次世界大戦中の物資が乏しい状況の中でも建設が続けられた。典型的な高層アパートは中庭
を中心に設け、周りを廊下が囲むプランで、地下に売店が設けられたものもあった。各棟をつなぐ複雑な廊下は通路
としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという。

当時としては最新の設備を備えた建物が多かったが、どの建物にも人員用エレベーターは設置されておらず(1945
年建設の65号棟で設置予定だったが、資金不足で結局設置されなかった。また小中学校には、閉山までのごく短
い期間だったが給食用エレベーターが設置されていた)、また個別の浴室設備(内風呂)を備えるのは鉱長社宅の5
号棟(1950年)および幹部職員用アパートの3号棟(1959年)、職員用集会宿泊施設の7号棟(1953年)、そして島内
唯一の旅館「清風荘」だけで、トイレ、炊事場も閉山まで共同のところが多かった。

現状
近代化遺産として、また初期集合住宅の遺構としても注目されている。廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上る。
現在は無人化により放棄され、維持管理が行われないため、いくつかの建物は既に崩落し、また倒壊の危険性を抱
えている。このため、島内への立ち入りは現在禁止されている。

三菱マテリアルが島を所有していたが、2002年、高島町に無償譲渡された。廃墟化のため危険な箇所もあり、課題
は多いものの、観光面での活用についても検討が行われている。 建物は老朽化しており、将来的に保存していくな
らば、早い時点での補修が必要である。論議が喚起されつつあり、一部で世界遺産への登録運動が行われていた
が、2006年8月、経済産業省が軍艦島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと世界
遺産への登録を支援することを決定した。

交通アクセス
住民がいた頃は野母商船が長崎港より、伊王島、高島を経由して軍艦島に至る航路を運行していた。1970年の時
点では1日12往復、長崎までの所要時間は50分であった。無人化により航路は廃止され現存しないが、やまさ海運
により長崎港から、共同観光 により野母港から軍艦島の周囲を巡る遊覧船が運航されている

現在、島への上陸は禁止されているが、上陸を試みる冒険家は多く、その場合は海上タクシーが利用される。2005
年8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む軍艦島内部の様子が各メディアで紹介された。









今回のツーリングにあたっては、速度違反取締り対策として、クルマ用のレーダ
ーを取り付けてみました。雨対策で、100円ショップで買ったビニール袋をかぶ
せ、盗難対策として針金でグルグル巻きにしました。
厳重すぎて、警告音がほとんど聞こえませんでした。


長崎見物をします。斜面に建てられた活水女子大学の赤い屋根が印象的で
す。
 
先ずは、グラバー邸。大した屋敷です。
明治維新の際に、足元を見て高い値段で黒船や銃器を売りつけたのでしょう
か。笑
売店では坂本龍馬グッズがやたらと売られていました。長崎には総合商社の
始まりである亀山社中(後の海援隊)があり、坂本龍馬もグラバー相手に取引
をしていたそうです。


続いて大浦天主堂を見学。
前で一人で立っていると、やたらとカメラのシャッターを頼まれます。
中に入るとステンドグラスが素敵です。
なんと、懺悔をする場所がありました。
不謹慎にも、「俺達ひょうきん族」の懺悔のコーナーの神様、太平シローを思い
出し、吹き出してしまいました。笑

この後、大浦天主堂前のお店で長崎名物の皿うどんと長崎ちゃんぽんを食べま
した。
大阪で食べるものと別に何も変わりませんが、やはりご当地で食べることに意
義があります。


原子爆弾の爆心地である、長崎平和公園に行きました。
何故、こんなに街の中心からはずれたところに原爆が投下されたのか判りませ
ん。爆心地は、長崎刑務所の浦上支所だったところです。
後で調べると、第一目標であった小倉が天候不良で視界が悪くて投下を諦め、
長崎に向ったところ、こちらも悪天候。ところが、一瞬、雲の間から街が見えた
ので、無理矢理投下したそうです。ですから、広島に比べ、投下時間が遅いの
だそうです。街の真ん中への投下であれば、もっと被災者は増えていたことで
しょうね。


佐世保に向う途中に、大きな3本の煙突を発見しました。
炭鉱の跡かと思い、通りがかりの人に訊ねたところ、旧海軍の針尾無線塔なん
だそうで、煙突ではないそうです。
3本の塔の間には、電線が張られていて、太平洋戦争の開戦を指示する、「ニ
イタカヤマノボレ」の電文は、この無線塔から発信されたとのことです。

以下、佐世保海上保安庁のホームページより転載
当部針尾送信所の敷地内にある写真の3本のコンクリート無線塔は、旧海軍が、大正7年(1918年)から大正11
年(1922年)までの4年間の歳月をかけて完成させたものですが、戦後の昭和23年5月、海上保安庁発足当初か
ら、当部が引き継いで使用してきたものです。
 以後、平成9年3月に建設した代替施設にその全ての役割をバトンタッチするまで、当部通信所の施設の一部とし
て、幾多の海難通信等、海上保安業務に活躍貢献してきました。
 危険防止のため、無線塔内部などの見学はできません。

 無線塔の大きさ、構造等は次のとおりです。
(1)塔高 1号塔、2号塔 135m 3号塔 137m
(2)塔基部直径 12.12m
(3)塔基部周囲 33m
(4)塔頂部直径 3.12m
(5)コンクリートの厚さ 76cm
(6)3本の塔は正三角形に位置し、塔相互間の距離は300m
(7)基部は、すり鉢型に岩盤を堀り、深さは15〜30mともいわれている。
(8)頂部には正三角形(1辺18m、重さ9トン)のかんざし(空中線展張装置)が設置されていたが、落下等危険防
止のため、昭和55年3月〜昭和58年11月にかけて撤去。
(9)塔内には風圧に応じて働く空中線保護のための緩衝装置が設置されている。

佐世保に到着です。
海上自衛隊佐世保基地では、護衛艦の内覧会をやっていました。
いつもなら喜んで艦内を見せてもらうのですが、今日は寝不足と暑さでボーッと
して、とてもそんな感じではありません。
 

 
佐世保は、横須賀、呉、舞鶴と並んで旧海軍が鎮守府(軍港や兵学校、機関学
校、海兵団などの研究教育機関や、司令部等の行政機構)を置いたところで
す。
現在でもこの4つの港は、海上自衛隊の大きな基地がおかれています。
 



佐世保基地内には昔使われていた防空壕が沢山残っていました。ずっと奥深く
続いているようですが、流石に怖くて入れません。
帰阪後知ったのですが、佐世保には防空壕を利用した、「とんねる横丁」と呼ば
れる商店街があるそうです。

今、売り出し中の佐世保バーガーを食べたいと考えましたが、疲労で道を間違
えたりしてどうにもなりません。


旧海軍や海上自衛隊の資料館「セイルタワー」偶然見つけ、休憩をとりました。
冷房の効いた館内で缶コーヒーを飲みました。
男の缶コーヒーは「ボス」です。笑

セイルタワーの海上自衛官の案内で、うまく佐賀県に抜けました。棚田や唐津
の松林等が美しい風景は、大阪あたりでは見られません。遠くへ来たものだと
実感します。

 
連休で渋滞した佐賀県のバイパスでふと気がつくと、牛丼の吉野家がありま
す。
はなわの歌「佐賀県」で、「佐賀にも牛丼屋が出来た〜」と唄われていますが、
なんと歌詞のとおり「吉野屋」ではなく「吉田屋」です。笑

疲労困憊の中、福岡県福岡市に到着です。
博多では、健康保険組合のホテルを予約しています。
ところが、駐車場のガードマンが官僚的な口調で、「ここにバイクは置けない。
ホテルの裏に置くように。但し、貴方が自分で、事前にフロントの許可を受
けてくるように。」と言うのです。

別にお客風を吹かせるつもりは毛頭ありませんが、「お金払って泊まるのに、
こんなことを言われないとあかんのか。ホテルの都合があるにしても、もう
少し言い方があるんちゃうの。」と立腹しました。私も旅慣れているので、大阪
の文化基準を地方都市に当てはめることが間違いであることは理解しています
が、こちらは、事前のホテル予約時にバイク駐輪の是非を確認しています
ので、もう少し元気なら、ホテル側の連絡ミスではないかと、謝罪を求めてペ
ラペラと早口で追い詰めてやるのですが・・・・。
漫画「博多っ子純情」を愛読している25年来の博多フリークである私としては
残念でなりません。日本国中を旅してきましたが、ホテルでこんなに情けない気
持ちになったことはありませんでした。涙、涙・・・・・。

気をとりなおして博多の夜を散策します。
博多ラーメンの屋台や、ネオンサインを見ながら歩いていると、郷六平と出会い
そうな気がします。

キョロキュョロしていると、黒い服のお兄ちゃんが声をかけてきます。
歓楽街 中州の夜はこうして更けていきました。


2006年5月6日
早朝の福岡市を後にして、いよいよ大阪に向けて帰ります。
帰路は、大分県別府港から愛媛県八幡港までフェリーを利用、四国の瀬戸内
沿いを走り、愛媛県の東予港からフェリーに乗り、大阪南港へ帰る予定です。

 

 
大宰府跡を見学します。
菅原道真が左遷されたあの大宰府です。
当時の対外軍事、経済窓口は九州だったわけですが、高級官僚であった菅原
道真にとっては地方転勤は明らかな左遷でした。

私が中学生の頃、桜田純子が宣伝に出ていたカンコー学生服は、学問の神様
である菅公にあやかりカンコーと言う商標を使っているそうです。

また、天神様は菅原道真が左遷される際に立ち寄った場所に建立されていま
す。受験生の頃、合格祈願に連れて行かれ、「左遷された人に祈願してもご利
益があるのだろうか。」と考えましたが、菅原道真の死後、怨霊となり、左遷に
加担した好適手たちが雷に撃たれたり、原因不明の高熱で死んだりしたので、
藤原道真の霊を鎮めるために建てられたのだそうです。


学問の神様、大宰府天満宮に参詣しました。
友人に言わせると、「最早、手遅れ。」とのことですが、まあ、福岡まで来ながら
欠礼をするのは・・・。笑

 
京都の北野天満宮よりも立派な佇まいです。
 
菅原道真を追って、京都から一夜で飛んできたという飛梅もあります。
参拝後は、門前町のお店で名物の梅ヶ枝餅を食べました。
焼きたてで香ばしく、上品な甘さでした。

さあ、大阪に向いて帰路につきます。
帰りのルートは、大分県の別府港からフェリーで愛媛県八幡港に渡り、地道を
走って、愛媛県東予港から午後10時30分発のフェリーに乗って、翌朝に大阪南
港着です。
のどかな九州の山間部とも、これでお別れです。
名残惜しいですが、毎日を頑張っていれば、また、来れる日もあるでしょう。

 
懐かしのエドモンズ大学日本校の看板を見つけました。しかも、ひめがくキャン
パスランドやマルフクの看板もありました。


往路に眺めた湯布岳が見えます。九州最後の記念写真です。雄大な景色を目
に焼き付けます。

ただ、この時の私は、この後に降りかかる苦境
を、想像だにしていませんでした。

別府港到着は午後1時10分。
なんと目の前でフェリーが港を出て行きます。
次のフェリーは午後3時発。愛媛県八幡港到着は午後6時。ここから地道で約1
40キロを3時間30分で走ってフェリーに乗らないといけません。高速道路を使
えるのなら余裕ですが、地道を走れば、かなりきわどい距離と時間です。その
上、雨が降り始めました。

腹を決めて、バイクの整備をします。ガソリンを満タンにし、オイル残量を確認。
ブレーキワイヤー等に油を吹きました。フェリーを降りる際の雨具の準備も完璧
です。別府の温泉に入り、身体をリラックスさせ、弁当を食べてエネルギーの蓄
積に努めます。

これから訪れる難局に緊張して、雨の中、フェリー乗り場で並んでいると、ライダ
ーが声をかけてきました。昨年の北海道ツーリングの際の知り合いと、阿蘇山
でミィーティングだったそうです。

フェリーにのりこみ、阿蘇ミィテーティング帰りのライダーと話をします。
香川県高松市まで帰るそうで、さきほど、高速道路でガソリンホースがサビで詰
まり、3時間かけて自力で直したそうです。バイクにトラブルはつきものですね。

フェリーは帰省の家族で満員で、廊下にまで人が寝ています。
「ドーン」何度も大きな音で船が揺れ、恐怖に慄く子供達が泣き叫びます。
船外はすごい風雨です。縦に2メートルくらい一気に沈むので、お腹が涼しくな
ります。

約3時間の旅で、八幡浜に着きました。
バイクはクルマの後に出ます。フェリーの外は大雨。
自分に、「焦らずにケガなく走れ。」と言い聞かせ、連れのライダーに別れを告
げました。

 若干小雨にはなったものの、スリップの恐れもあり、慎重はバイクを走らせま
す。目的地まで140kを3時間30分、しかも知らない街です。
 先ずは松山市を目指します。地図を見ると、目的地の松山までの道路は、海
沿いの国道378号線を走る方法と、山中を突っ切る197号線の2経路がありま
す。前者は、海沿いを走るために、道は簡単ですが、かなり距離が増えますし、
海沿いのため、海風を受ける危険性があります。後者は、山中で真っ暗ではあ
りますが、最短距離です。雨に塗れた道をスピードを出すのは危険なので、後
者を選びました。
 八幡港と松山市は一度走っているので、何となく見覚えのある道ですが、結
構険しい、そして真っ暗な峠を越えます。地図で見ると、「夜昼峠」というそうで
すが、街灯も何もありません。
 大州市に入ったところで、原付不可のバイパスに直面してしまいました。仕方
なくUターンをして、道を探しているうちに、方角と自分の位置を見失ってしまい
ました。
 焦る気持ちを抑えて、雨の中、立小便をします。小便の音とクルマのタイヤ音
だけが聞こえます。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせてお茶を飲み、ゆ
っくりと地図を見ながら、現在地を確認、またまた松山市へ爆走です。
 ライトアップされた松山城を見た時、少しホッとしました。中間地点です。残り
の時間と距離を考えると、何とかフェリーに間に合う見込みがつきました。
 休むことなく雨の中を、国道11号線を東へ向って走ります。ところが、道路標
識と地図の位置がとうしても合致しないのです。後で判ったのですが、市町村
合併があったそうで、10年以上前のマップルを後生大事に使っていたことが、
ここにきて影響してきたのです。
 東予港は、西条市より西側にあるので、とにかく海側を目指して坂を下ってい
きます。ところが、港の看板も見当たりませんし、道路の標識もありません。ここ
までの緊張と疲労から疲れが出てきたのか、頭がボーッとして、どうにもならな
くなりました。
 フェリー出航まであと20分。もう間に合いそうにはありま
せん。ここで無理をしても、疲れたこの状態では、事故を起
こしかねません。とにかく、街に出て、休憩を取り、明日一日
かけて大阪まで約450キロを走って帰る気持ちを固めまし
た。
 ところが不思議なことに、坂を下りきったところにフェリー乗り場の看板があ
り、その方向ほ見ると、さんふらわぁ号のトレードマーク、太陽の塗装をしたフェ
リーが止まっています。
出航まであと7分というところで港に滑り込み、レインコートを着たまま乗船手続
きをし、一番最後に乗船できました。

これで翌朝には大阪南港です。満員のため廊下に毛布をひいて寝ますが、明
日一日走ることを覚悟していただけに、全く平気です。この廊下の一角が、何よ
りも貴重なスペースに感じました。雨にぬれたズボンを男子トイレで履き替え、
就寝しますが、奇跡的にフェリーに乗り込めたことに興奮してなかなか寝付けま
せん。

翌朝5時には大阪南港到着です。一日寝たら、また仕事です。長らくのお付き
合い、ありがとうこざいました。

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