旧大日本帝国海軍局地戦闘機「紫電改」見学

 平成17年12月24日、局地戦闘機「紫電改」を見学に、愛媛県愛南町の南レ
ク御荘公園に行ってきました。当日は強風でゴンドラは運行停止。有料道路か
ら約1キロを歩きます。


 寒い上に強風、誰もいません。そうですね。クリスマスイブですから・・・・。本
当に展示されているのか心配になります。




 ありました。紫電改。写真の海から引き上げられたそうです。大戦末期、源田
実大佐の尽力で、松山基地で精鋭パイロットと最新鋭機紫電改で編成された
第343航空隊は、物量で押し捲ってくる米軍と互角に渡り合い、帝国海軍の最
後の華を飾りました。










この岬の先から引き上げられたそうです。

以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載

「紫電改」(しでんかい)とは、水上戦闘機「強風」を元に開発された局地戦闘
機 紫電(しでん)一一型の改良型である二一型以降の「紫電」を指す。局地戦
闘機、即ち迎撃戦闘機として太平洋戦争末期の日本本土防空戦で活躍した。
設計生産は二式大艇の設計で有名な川西航空機(現新明和工業)、主任設計
技師は菊原静男技師。

強風から紫電
昭和16年末、川西は試作中の「強風」の陸上戦闘機化を海軍に提案。同年12
月28日に「仮称一号局地戦闘機」として試作許可を受けた(同時に二式大艇の
陸上攻撃機化も検討されている)。

完成を急ぐため、可能な限り「強風」の機体を流用することになっていたが、実
際には発動機を「火星」から大馬力かつ小直径の「誉」への換装や尾輪装備の
ため、機首部の絞り込みや機体後部が大幅に変更されており、そのまま使用
できたのは操縦席付近のみであった。しかし主翼については、車輪収容部分を
加えた他はほぼ原型のままで、翼型も川西が独自開発した層流翼(P-51 マス
タングも採用)のままであった。

昭和17年12月27日に試作一号機が完成したが、日本機としては大直径プロペ
ラに対応して採用した二段伸縮式の主脚や「誉」の不調、これに起因する離着
陸時の事故の多発、前方視界不良や速度不足などの問題が発生した。しか
し、問題未解決のまま昭和18年8月10日に量産が命じられた。これは、従来の
海軍主力戦闘機機である零戦では米英軍の新鋭戦闘機に太刀打ちできなくな
ってきたこと、零戦の後継と目されていた「雷電」の実戦配備が遅れていたこと
が主な原因である。

紫電から紫電改
昭和18年3月15日、「紫電」の不調を解決する抜本的な解決策として、胴体部
分を再設計することになり、「仮称一号局地戦闘機改」として開発が始まった。
川西の努力の結果、同年12月31日に試作一号機が完成した。

主な改修点は主翼配置を中翼から低翼とし、また胴体全体を「誉」の直径に合
わせて絞り込んだことで、低翼化に伴い発動機周り以外では最もトラブルが多
かった二段伸縮式主脚を廃止されたことで主脚関係のトラブルが激減、同時に
離着陸時の前下方の視界も改善された。また部品点数を紫電の2/3に削減
し、量産性を大幅に高めていた。

主翼配置が中翼から低翼式に変更されたが、翼型は強風・紫電一一型と同様
であった。また紫電一一型・一一甲型(N1K1-Ja)では20mm機銃2挺をガンポッ
トとして主翼下に外付けしていたが、「紫電改」では紫電一一乙型(N1K1-Jb)と
同様、4挺とも翼内装備としている。また「強風」以来の自動空戦フラップも改良
により実用性を高めている。

零戦で問題となった防弾装備については、主翼や胴体内に搭載された燃料タ
ンクは全て防弾タンクとなり、更に翼内タンクについては自動消火装置も装備さ
れていた。操縦席前方の防弾ガラスは装備されていたが、操縦席後方の防弾
板は計画のみで実際には未装備だったとされている。但し、防弾板が装備され
た機体を目撃したという搭乗員の証言もある。


実戦
太平洋戦争中盤以降、劣勢が続いていた日本海軍戦闘機隊に米軍の新鋭戦
闘機と互角に戦える強力な戦闘機として登場した。特に大戦末期、源田実大
佐の元、松山基地で編成された第三四三航空隊(2代目。通称「剣」部隊。以下
「三四三空」と略)は、集中配備された「紫電改」と腕の立つパイロットを組み合
わせ、更に徹底的な改良が施された無線機(無線電話機)を活用した編隊空戦
法により大きな戦果を挙げたとされる。とりわけ昭和20年(1945年)3月19日、
呉軍港を襲った米海軍機動部隊のグラマン F6Fヘルキャット戦闘機を主力とす
る艦上機の大編隊(戦爆合計で350機以上と言われ、1/3が戦闘機。三四三空
が交戦したのはその半分程度)を紫電改56機、紫電7機の計63機で迎撃、戦
闘機48機・爆撃機4機の合計52機を撃墜し、日本海軍戦闘機隊の有終の美を
飾ったという伝説は有名である。

しかし、撃墜52機という戦果は日本側の記録であり、米軍の戦闘報告と照合し
たところ、実際にはそこまで大きな損失は無かったという調査結果もある。その
後の三四三空の活躍も、米軍の記録と照合した結果、殆どが過大であったとさ
れる(戦場では戦果誤認は避けられず、米軍の戦果報告も過大だったという)。
但し、数で圧倒的に勝る米軍と互角に戦い、時には勝利を納めていることも事
実である。

更に、「紫電」の運用指導のため松山基地を訪れた坂井三郎中尉(当時)の
「実働機を遙かにしのぐ廃棄された「紫電」が山と積まれていた」という証言や、
各パイロットの飛行時間及び練習飛行隊卒業日時から類推されるように、三四
三空のパイロットは一握りのベテランを除くと未熟な新人がかなり含まれてお
り、一般に伝えられる「手練ればかりを集めた」との評価も事実とかなりの隔た
りがある。

1979年11月、愛媛県南宇和郡城辺町(現・愛媛県南宇和郡愛南町)久良湾の
海底で1機の「紫電改」が発見され、翌1980年7月に引き揚げられた。1945年7
月24日に豊後水道上空で交戦した三四三空の未帰還機6機の内1機とみられ
ている。この機体は回収後に補修・塗装され、日本国内で現存する唯一の実機
として愛南町にある南レク城辺公園に保存・展示されている。

評価
同時期に開発された同じ発動機を搭載する中島飛行機の四式戦闘機「疾風」
(以下、四式戦と略)と「紫電改」のカタログスペック上での最高速度を比較する
と「紫電改」の方が劣っている。しかし、「紫電改」の試作時における最大速度
は620km/hで、四式戦の試作時の最高速度624〜631km/hと大きな差はな
い。「紫電改」の最高速度が四式戦に比べて30km/hほど遅いのは、採用時期
が遅く、燃料やオイル等の質の低下により誉の出力が低下していたためではな
いかと考えられる。

「紫電改」の米軍テスト時の正確な数値は不明だが、「当時のどの米海軍の現
役戦闘機よりも優速であった」というコメントが残されており、また米軍に引き渡
すための空輸の際、巡航する紫電改に監視役のF6Fが全力で追いすがったと
伝えられる。また、昭和26年に来日した米空軍将校団の中にアメリカで紫電改
をテストした中佐がおり、こう評したという。「ライトフィールドで「紫電改」に乗っ
て、米空軍の戦闘機と空戦演習をやってみた。どの米戦闘機も「紫電改」に勝
てなかった。ともかくこの飛行機は、戦場ではうるさい存在であった」と。以上の
ことから、「紫電改」は米軍テスト時に689km/hを記録し、「最優秀日本戦闘機」
と呼ばれた四式戦に勝るとも劣らない機体であったと考えられる。もっとも、四
式戦や紫電改と相対していた当時の米軍機は、機体の数量もさることながら、
日本ではまだ試作段階であった耐Gスーツやジャイロ式見越し射撃角自動補正
機能付照準器等を既に装備しており、また三四三空が本格的に導入した無線
装置を駆使したロッテ戦法や一撃離脱戦法等の戦技面においても、米軍に一
日の長があったことも事実である。

スミソニアン博物館に展示されている「紫電改」の説明文に「太平洋で使われた
万能戦闘機のひとつである」とされながらも、「B-29に対する有効な迎撃機とし
ては高高度性能が不十分であった」と書かれているように、局地戦闘機として
は高高度性能が優れているとは言えなかった。これは日本機に共通する欠点
で、排気タービン過給器や二段式機械過給機を実用化出来なかったためであ
る。なお、この「紫電改」の高高度性能不足を補うため、一時は生産中止されそ
うになった「雷電」の生産が促進するという対策がなされている。

また、パイロットの技量や燃料の質の低下により燃費が悪化していたため、沖
縄戦において攻撃機(特攻機)の援護を行うには航続距離が不足したことか
ら、当時のパイロットの「紫電改」への評価には分かれる所もある。

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