金閣寺





 ワシの名前は足利義満じゃ。室町幕府の第3代将軍じゃ。

 江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗こと暴れん坊将軍が調子に乗って、マツケン
サンバとか言って歌ったり踊ったりしているようじゃが、メディアへの露出は、ワ
シのほうがずっと先じゃ。

 アラブの石油王が、ロールスロイスを金箔にしようと、ワシの金閣には敵わん
じゃろ。

 最近、鹿苑寺も、平成の大不況の影響か、ストレス封じや就職祈願が妙に増
えたようじゃ。一方で、中国や韓国からの観光客が増え、おみくじ販売機も中国
語、ハングルバージョンも設置したのじゃ。

 これ新右衛門、退屈じゃ。一休さんを呼べ。(笑)

以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より転載

鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足
利義満の法名にちなむ。通称金閣寺(きんかくじ)、山号は北山(ほくざん)。
1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。

通称「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した三層の建物で正式
には舎利殿と称する(金箔を貼るのは二・三層のみ)。初層・二層・三層のそれ
ぞれに異なる様式を採用した特異な建築で、初層は寝殿造風で「法水院」と称
し、二層は住宅風(武家造)の「潮音洞」、三層は禅宗様の仏殿風で仏舎利を
安置し「究竟頂」(くっきょうちょう)と称する。屋上には鳳凰が飾られている。

この地には、鎌倉時代の元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園
寺を建立し、あわせて山荘を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家
が代々所有していた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次
を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に
招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺
家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が
及ばず荒れていった。

1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改
築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北
山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全て
が集約された。義満はここで一切の政務を行った。その後、義満は征夷大将軍
を子の義持に譲ったが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を見た。義満の
死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体され、禅寺とされて鹿苑寺と
名付けられた。

応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した。

鹿苑寺金閣は第二次大戦前から(旧)国宝に指定されていたが、1950年(昭和
25年)、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上。林は寺の裏山で自殺を図
った。建物は全焼し、国宝の足利義満像も焼失した。この事件は三島由紀夫
の小説「金閣寺」、水上勉の小説「五番町夕霧楼」、「金閣炎上」の題材にもな
っている。

現存する金閣は1955年(昭和30年)に旧状どおり再建されたものである。

なお、上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、焼失のた
め、現在となっては真偽は定かでない。後に8代将軍・足利義政は祖父・義満
にならい、銀閣を建てた。

鹿苑寺は世界遺産(古都京都の文化財)に登録されており、庭園は国の特別
史跡、特別名勝である。

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